雲龍院
 本坊南の高所に位置する別院雲龍院は、後光厳院の思召しによって、竹巌聖皐(しょうこう)が開いた寺で、皇子・後円融院はここに如法写経の儀を興そうと寺領を寄せられた。
 また後小松、称光の両天皇もこの寺を崇敬され、四天皇崩御の後は後山に御分骨所が営まれ、北朝歴代の御尊牌が霊明殿に奉安されている。


悲田院
 聖徳太子が身寄りのない老人や放置されている子供を収容する施設として造られたのが悲田院の始まりといわれる。延慶元年(1308)無人和尚がこれを一条安居に再興し、四宗兼学の寺とした。
 後花園天皇はこの寺を勅願寺とされ、崩御の時には当寺で御葬儀や荼毘が行われた。


来迎院
 弘法大師が唐土で感得した三宝荒神を奉安して開いたと伝えられ、今も大師ゆかりの独鈷水がある。400年後の健保6年(1218)、月翁智鏡(がっとうちきょう)長老が堂宇を開創して泉涌寺子院とした。
 高所に建つ広幅殿荒神堂には、木像荒神坐像一躯・木像護法神立像五躯(共に重文)が奉祀されている。


善能寺
 鎮守社の下段に現存する善能寺は、大同元年(806)弘法大師の創建といわれ、元西八条猪熊二階堂町に在り、平城天皇の勅願寺であった。天文24年(1555)、後奈良天皇の叡慮により泉涌寺山内に移された。
 本尊は観世音菩薩で、また枳尼(だきに)尊天を祀る最初の寺ともいわれ、国稲荷神の本地仏としての信仰がある。


今熊野観音寺
 観音寺は、初め東山観音寺と称したが、後白河上皇が永暦元年(1160)、新熊野社を勧請創建された際、改めて新那智山の山号を寄せられ、今熊野観音寺と称することになったという。
 斉衡2年(855)創立の法輪寺のあとともいわれるが、後白河上皇以来の御尊祟は甚だ篤い。寺伝で弘法大師の作といわれる本尊十一面観音像は、脇士不動明王、毘沙門天像とともに篤い信仰をあつめ、参詣者は絶えることのない賑わいをみせている。


新善光寺
 寛元元年(1243)8月、僧・値願念西が歓進し、後嵯峨天皇の御願寺として一条大宮の地に創建された。
 勅命によって大工藤井為行、小工沙弥教弘らが信州信濃善光寺本尊と同体の全銅阿弥陀如来立像を鋳造して本尊とし、新善光寺と呼んだ。


法音院
 寺伝によれば鎌倉時代末の嘉暦元年(1326)無人如導によって山内に創建されたという。規模や経過の詳細は知る由もないが、「古伽藍図」にもその名が見えている。更に天正年間の記録にも法音院分朱印地は記されている。江戸時代の初め泉涌寺再興とあい前後して諸塔頭もその威容を整えたが、当院は寛文4・5年(1664・1665)幕府及び本多正貫・同夫人の支援を得、覚雲西堂の手により、現在地に移し再建された。


戒光寺
 戒光寺は、鎌倉時代安貞2年(1228)宋から帰朝した浄業曇照が大宮八条の東堀川の西に創建し、後堀河天皇の勅願所となった。その後一条戻り橋の東に移り、更に三条川東を経て、正保二年(1645)現地に移され再興された。本尊・釈迦如来立像(重文)は一丈六尺を越え(約5.4m)総高約10mの大像で、運慶湛慶父子の合作である。


即成院
 泉涌寺総門前北側の即成院は、伏見長者と称された橘俊綱の創建で、元伏見大亀谷に所在したが、明治維新の廃仏毀釈で無住となる。そのため、泉涌寺塔頭で本寺の法安寺と合併し、明治35年(1902)、現在地で再興された。


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