山内寺院

山内寺院一覧

  • 阿弥陀如来・二十五菩薩(重要文化財) 阿弥陀如来・二十五菩薩(重要文化財)

    即成院そくじょういん

    泉涌寺総門前北側の即成院は、伏見長者と称された橘俊綱の創建で元伏見大亀谷に所在したが、明治維新の廃仏毀釈で無住となる。そのため、泉涌寺塔頭で本寺の法安寺と合併し、明治35年(1902)、現在地で再興された。

    現世極楽浄土とよばれる即成院内陣の本尊・木像阿弥陀如来坐像並びに二十五菩薩坐像(共に重文)は、藤原期の造顕で、観音・勢至をはじめ歌舞音曲のすべてが揃い、阿弥陀来迎の歓喜をまのあたりに想わせる御姿の仏像で、現存例は他にない。毎年10月第3日曜には二十五菩薩お練供養が御詠歌講の来迎和讃にあわせて行なわれ、参詣者で賑わう。

    また境内には、屋島の合戦で知られる源義経の臣・那須与一宗高の墓が祀られ、『願いが的へ』と願い事を扇に書いて祈願される方が多数お参りされる。

  • 不空羂索観音立像 不空羂索観音立像

    法音院ほうおんいん

    寺伝によれば鎌倉時代末の嘉暦元年(1326)無人如導によって山内に創建されたという。規模や経過の詳細は知る由もないが、「古伽藍図」にもその名が見えている。更に天正年間の記録にも法音院分朱印地は記されている。江戸時代の初め泉涌寺再興とあい前後して諸塔頭もその威容を整えたが、当院は寛文4・5年(1664・1665)幕府及び本多正貫・同夫人の支援を得、覚雲西堂の手により、現在地に移し再建された。本尊は不空羂索観音で、現在の本堂は英照皇太后の御須屋を賜わったもの。洛陽三十三観音霊場、第25番札所でもある。泉山七福神の内、寿老人を安置する寺としても衆庶の信仰をうけている。

  • 釈迦如来立像(重要文化財) 釈迦如来立像(重要文化財)

    戒光寺かいこうじ

    戒光寺は、鎌倉時代安貞2年(1228)宋から帰朝した浄業曇照が大宮八条の東堀川の西に創建し、後堀河天皇の勅願所となった。その後一条戻り橋の東に移り、更に三条川東を経て、正保二年(1645)現地に移され再興された。本尊・釈迦如来立像(重文)は一丈六尺を越え(約5.4m)総高約10mの大像で、運慶湛慶父子の合作である。本像を始め光背・台座も同時代のもので、蒔絵彩色も良く残り、宋風の類稀な鎌倉時代彫像である。後陽成天皇皇后中和門院の御信仰、後水尾天皇の守護仏としても朝野の崇敬篤く、「身代わり丈六さん」の名で庶民の篤い信仰をうけている。開山曇照津師像は鎌倉期の祖師像。重要文化財に指定された。

    また、戒光寺墓地には御陵衛士伊東甲子太郎以下4名の墓がある。御陵衛士は戒光寺湛然長老の肝いりで組織され、新撰組参謀・伊東甲子太郎ら15名が参加したが、後に新撰組に襲われ伊東以下4名が暗殺された。始めに壬生寺に葬られたが、明治元年に戒光寺に改葬された。

  • 宝冠阿弥陀如来坐像 宝冠阿弥陀如来坐像

    悲田院ひでんいん

    聖徳太子が身寄りのない老人や放置されている子供を収容する施設として造られたのが悲田院の始まりといわれる。延慶元年(1308)無人和尚がこれを一条安居院に再興し四宗兼学の寺とした。

    後花園天皇はこの寺を勅願寺とされ、崩御の時には当寺で御葬儀や荼毘が行なわれた。これより当寺住職は代々天皇の綸旨を賜わり紫衣参内が許された。正保3年(1646)、高槻城主・永井直清が現在地に移建し、如周和尚を迎えて住持としたのが現在の悲田院である。その後、明治18年(1885)、塔頭寿命院と合併再興され、本尊は阿弥陀如来である。

    寺宝としては快慶作と伝えられる宝冠阿弥陀如来坐禅像や逆手の阿弥陀如来立像があり、また土佐光起・光成などの土佐派と、橋本関雪の襖絵がある。なお当院の毘沙門天は除災招福の仏として広く信仰されている。して広く信仰されている。

  • 阿弥陀如来立像 阿弥陀如来立像

    新善光寺しんぜんこうじ

    寛元元年(1243)8月、僧・値願念西が歓進し、後嵯峨天皇の御願寺として一条大宮の地に創建された。勅命によって大工藤井為行、小工沙弥教弘らが信州信濃善光寺本尊と同体の全銅阿弥陀如来立像を鋳造して本尊とし、新善光寺と呼んだ。

    南北朝、室町時代に入ると庶民の崇敬を受け、寺領も整って寺勢は盛んであった。しかし応仁の乱で灰燼に帰し、文明5年(1473)泉涌寺山内に移建、孤雲正瑞の再興により現域に落着くのは寛文年中である。

  • 本堂 本堂

    今熊野観音寺いまくまのかんのんじ

    観音寺は、初め東山観音寺と称したが、後白河上皇が永暦元年(1160)、新熊野社を勧請創建された際、改めて新那智山の山号を寄せられ、今熊野観音寺と称することになったという。

    斉衡2年(855)創立の法輪寺のあとともいわれるが、後白河上皇以来の御尊祟は甚だ篤い。寺伝で弘法大師の作といわれる本尊十一面観音像は、脇士不動明王、毘沙門天像とともに篤い信仰をあつめ、参詣者は絶えることのない賑わいをみせている。

    正徳3年(1713)12月、当寺中興宗恕祖元律師によって本堂の再興がなり現在に至っている。なお後堀河天皇の観音寺陵は、寺の東南に隣接して営まれている。

  • 善能寺祥空殿 善能寺祥空殿

    善能寺ぜんのうじ

    鎮守社の下段に現存する善能寺は、大同元年(806)弘法大師の創建といわれ、元西八条猪熊二階堂町に在り、平城天皇の勅願寺であった。天文24年(1555)、後奈良天皇の叡慮により泉涌寺山内に移された。

    本尊は観世音菩薩で、また枳尼(だきに)尊天を祀る最初の寺ともいわれ、国稲荷神の本地仏としての信仰がある。

    戦後バンダイ号をはじめ航空殉難者のみ霊をお慰めする祥空殿を建律し、御回向を続けている。

    古くより洛陽三十三観音の一つに数えられ、多くの参拝者でにぎわったという。

    近年、洛陽三十三観音の復興とともに、18番札所となった。

  • 三宝荒神像 釈迦如来立像(重要文化財)

    来迎院らいごういん

    弘法大師が唐土で感得した三宝荒神を奉安して開いたと伝えられ、今も大師ゆかりの独鈷水がある。400年後の健保6年(1218)、月翁智鏡(がっとうちきょう)長老が堂宇を開創して泉涌寺子院とした。高所に建つ広幅殿荒神堂には、木像荒神坐像一躯・木像護法神立像五躯(共に重文)が奉祀され、古くは皇后宮の安産祈願所となり、現在も信者が多い。また本堂に霊元天皇の御念持仏であった幻夢観音菩薩坐像も祀られている。

    なお境内一角に赤穂義士・大石義雄建立の茶室「含翠軒(がんすいけん)」があり、念持仏・勝軍地蔵尊はa本堂に祀られている。院内庭園には小さいながらも独特の雰囲気をかもし出しており、殊に晩秋の紅葉はすばらしい。

  • 釈迦如来立像(重要文化財) 釈迦如来立像(重要文化財)

    雲龍院うんりゅういん

    本坊南の高所に位置する別院雲龍院は、後光厳院の思召しによって、竹巌聖皐(しょうこう)が開いた寺で、皇子・後円融院はここに如法写経の儀を興そうと寺領を寄せられた。

    また後小松、称光の両天皇もこの寺を崇敬され、四天皇崩御の後は後山に御分骨所が営まれ、北朝歴代の御尊牌が霊明殿に奉安されている。本堂(重要文化財)安置の本尊・薬師三尊(藥師・日光・月光)は極めて写実的な鎌倉時代の作、また「走り大黒天」は有名である。